martin luther king kirchgemeinde // hamburg steilshoop
architects: paschtan, werner, winking
completion: 1974
“レコーダーを購入してからは、よっぽど観たい番組以外は録画して観てますが、 パチンコ・消費者金融・携帯電話のゲーム、 その3つで借金まみれになった多重債務者をカモにした借金相談の法律事務所といった 下流層をターゲットにしたビジネスのCMや、 「効果は個人差があります」「個人の感想です」というテロップさえ 入れておけば許されている怪しい健康食品・薬品系や 保険会社といった不安産業ビジネスのような頻繁に流れているCMなんか、 時間の無駄で、いちいち観ていられませんよ。 だいたい、今なんてバラエティー番組などのゲストが、 映画やドラマの宣伝のためだったり、 家電紹介とかファミレスで延々食事してるだけとか、 番組そのものが広告化しています。 地上波の民放ではニュースもバラエティー化が進んでいるので、 落ち着いたBSニュースや気になるニュースを自分で選択できるネットで ニュースを観るようになりましたし、 それに、CSで海外のTV番組を観るようになると、 我が国のTV番組が、 つねに騒がないといけないと勘違いしている出演者、 装飾を施したテロップの多様、 煽るようにうるさいナレーション、 映像を観る出演者のワイプ画面、 多用するBGM、 原色でやたらに派手なセット、 「続きはCMの後で」といったCM挟みを多用し内容が間延びするといった 演出が過剰で幼稚だなと感じるようになりました。 例えば、私が大好きな『MythBusters(邦題:怪しい伝説)』なんて、 過激な実験をしているのに、 ナレーションは煽りもせず淡々と話して、 「この後、とんでもないことが!」と声のトーン上げて、 注目シーンを強調するようなこともありませんし、 自らで大規模な実験道具を作り実験をしている出演者たちも ほとんど騒がず落ち着いたものです。 ほかの番組も落ち着いた演出で、そんな海外番組を観慣れてくると、 映像も音も騒がしいテレビ番組にイライラしてくるようになったので、 好きな番組以外は極力、観ないようにしているのですが、 家のパソコンがリビングに置いてあるので、パソコンをしている最中に、 家族の誰かが観ている番組の音声だけを聴いていても、 騒がしいのでイライラしてきます。 だから最近は、テレビが消えるとホッとするようになりました。 音楽ならロックだろうがテクノだろうが騒がしいものでも平気なのですが、 テレビとなるとうるさく不快に感じてくるので不思議なものです。”
フランスで制作中の実写版シティハンターのポスター、空気感が完全にシティハンターですごい…。
https://twitter.com/kuwane/status/1057069841092304896/photo/1
“ブックオフとハードオフは全くの別会社 ハードオフの社長がブックオフに惚れ込んで似たデザインを使わせてもらっている”— 「へえ」ってなる雑学を一つ書いてけ:哲学ニュースnwk (via gkojax)
(Source: blog.livedoor.jp)
“Kindleが採用しているのはE Inkという電子ペーパーシステムである。凸版印刷のE Ink 電子ペーパーページの説明がわかりやすいと思われるが、最大の特徴は透過光ではなく反射光であるということだ。 紙の本もそうだが、物体に反射した光が目に入る。これが反射光。一方、テレビやパソコンのモニターはブラウン管や液晶やプラズマディスプレイが光を発している。これが透過光メディアだ。E Inkを使ったキンドルは、電子本デバイスでありながら、透過光ではなく反射光なのである。 反射光と透過光の違いは、実は非常に重大な意味を持っている。その意義について、丸田一『「場所」論―ウェブのリアリズム、地域のロマンチシズム (叢書コムニス08)』が非常にわかりやすくまとめているので、少し長くなるが引用したい(178~179ページ)。ここでは、映画も反射光メディアに含まれている。 まず、確認したいのが、「透過光」がもたらす「距離埋没効果」である。パソコンのモニター、携帯電話をはじめ、ウェブ空間のインターフェースは、ほとんどが透過光によるスクリーンである。スクリーンにはブラウン管や液晶、有機ELなど様々な映像表示方式が採用されているものの、どれも発光源を持ち、スクリーン表層を透過する光線で画面を表示することに変わりない。透過光による表示は、反射光の表示に比べて現前性が高く、利用者の身体とスクリーンとの間に横たわる十数センチ~数十七ンチという距離を埋めてくれる。 透過光が強い現前性をもたらすことは、マクルーハンも『メディアの法則』[★125]で指摘している。マクルーハンは、映画の観客を二分して、一方には普通の映画と同じように反射光によって、もう一方には透過光によって同じ映画を鑑賞させるというハーバート・クルーグマンの実験を取り上げている。反射光のグループの感想は、映画を物語や技術に注目して理性的に分析し、批判する傾向が優位を占めたのに対して、透過光のグループでは、好き嫌いという情緒的で、主観的な反応が優位を占めた。 反射光の映画において観客は、スクリーンと身体との物理的な距離を保ったまま、対象としてスクリーン上を見ている。この距離が映像を対象化し、観客に分析的で批判的な見方を与える。一方、透過光のテレビでは、スクリーンを越えて到達する光に視聴者が深く差し込まれてしまうので、映像は実際のスクリーン面から離れて、観客の目や身体を擬似的なスクリーンにして現前する[★126]。このように透過光の場合、観客は対象とうまく距離をとれず、場合によっては対象と位置的に重なってしまうことが、観客に情緒的、主観的な見方を与えるといえるだろう。 ところで、パソコンのスクリーンを眺めていても発見できない誤字脱字が、プリントアウトすると容易に見つかるという経験は、誰もが一度はあるのではないだろうか。これも「反射光と透過光」である程度説明ができる。スクリーンの透過光で文字を読んでいても見逃しがちな誤字脱字は、プリントアウトした紙の反射光で読むと、対象を分析的、批判的に捉えることができるので、より発見されやすいといえる[★127]。 このように現前性の強い透過光が、ウェブ空間のインターフェースに用いられているのは偶然ではないだろう。現前性の高い透過光は、スクリーンと利用者の身体との。間にある物理的な距離を埋没させ、スクリーンを没対象化させてしまう。これがスクリーンというインターフェースを準没入型に変えるのである。”— Amazon Kindle(アマゾン・キンドル):「反射光の電子ブック」という革命的に新しいメディア - 絵文録ことのは - BLOGOS(ブロゴス) - livedoor ニュース (via yaruo) (via fatherion) (via 778) (via pedalfar) (via wiggling) (via tessar) (via nanospectives) (via takaoka) (via less-is-more) (via shigesa) (via plasticdreams) (via yaruolikes) (via jun26) (via toshi0104) (via kiri2)
“日本の体育会系の礼儀正しさって嘘やからな。あいつら利害関係とか上下関係でしか、対人関係考えられないから、自分の脳内の範囲外の人たちには挨拶一つしないで。”
“この話を読んで、僕は小学校5・6年生の頃、美術と習字と音楽を担当していた先生を思い出した。 その先生は隣のクラスの担当で、上記3つの時だけ僕のクラスで教えていた。 美術、習字、音楽と言えば、小中学生に嫌われる授業の上位を占めると僕は思うのだけど、とにかくそれまで僕は嫌いだったし(特に習字と音楽)それまでの先生の言ってることもわけがわからなかった。 2人1組になってお互いの顔を描きましょう、なんて隣の人(女子)と気まずくなるためだけのイベントだったし、 筆でぐーぐっっと書きなさいと怒る先生の言ってることは意味不明だったし、 目で声を出すんです!頭の上から歌うんです!とか生体構造を無視したことを言われていた。 ところが、5年生の時から来たその先生は、僕らの美術嫌い、習字嫌い、音楽嫌いを一瞬で直してしまった。 その先生ははっきり言えば少し人間性に問題のある先生で、みんなにイメージを持ってもらうために多少大げさに言えば、 通常の先生 + (GTOの鬼塚 ÷ 10) - 金八先生 こんなんだった。 もちろん小学校の先生なので、無茶はしなかったし先生業務は真面目だったが、例えば生徒にぶっちゃけ話をしすぎたし、授業中に「あー今日はだるぃー」とか言い出したし、標語とかそういうことをしなかった。 僕は結構嫌いだったのだがwクラスのみんなからは人気だった。PTAには嫌われていた。 まず音楽。 先生は最初の授業でビデオを持ってきた。 ウィーン少年合唱団のビデオだった。 僕らは、その「ウィーン」というロボットの動作音的響きにまず笑い、少年たちの出す高い歌声に爆笑した。 ところが先生がウィーン少年合唱団に対する世界の評価を紹介しだすと、僕らは、これは笑うべきものではなく世界で賞賛されるべき素晴らしいことなんだ、ということを理解し、すぐに感心しだした(小学生は現金なものである)。 先生はまずゴールを設定した。 出すべき声は、透き通った強くて高い声、そしてそれが集団になっても1つの声の束に聞こえるように。 次に僕らの羞恥心を取り去るべく、クラスのジャイアン的存在に目をつけ、彼に大きな高い声で歌うよう指導し、それを褒め称えた。 本来なら一生懸命歌うことを揶揄するそのジャイアン的存在が進んで歌うようになってから、クラスでは必死に歌うことを馬鹿にする人間はいなくなった。 僕らの歌が上手くなったかどうかは分からないが(それでも地域コンクールでは1位だった)確実に言えるのは楽しかったということ。音楽が好きになったこと。 何が足りないのか、何をすればいいか、何を努力すればいいか、が、凄く分かった。 面白いことに、過去の音楽の先生が言っていた「頭の上から声を出す」などが、何を言わんとしていたかもなんとなく理解できた。 次に美術。 先生はまず、紙にフリーハンドで直線を引く練習をさせた。 これはかなり感謝しているのだが、その後の人生でこの、フリーハンドで直線を引ける技術は役に立った。(例えば数学のグラフ) そして立方体のデッサンをさせた。 みんな斜めの立方体は描ける。でも先生は正面から描いてみろと指示した。 僕も含めてクラスの8割は「日」みたいな正方形を2つくっつけたDSマークみたいな絵を描く。自分たちでも何かおかしいと思う。 そこで先生は、上の正方形は実は台形に描くんだよ、と教える。ほらよく見てごらん、目の前の立方体もそうなってるだろ? 本当だ!みんなびっくりした。少なくとも僕はびっくりした。 理解できない子には写真を上からなぞらせてみたら理解した。(この時、僕はあまりに潰れた台形であることに再度びっくりする。) そこから先生は、人間の目は見たものを補正していること、上手い絵(正確に言えば写実的な絵)は見たままを補正しないで紙に写し取ることだということを教えた。 ピカソの絵を紹介して(みんな爆笑はしなかった)この絵は世界から賞賛されていること、彼は本気で描けば上手い絵が描けるのだということ(今思うと凄い言い草だ)、芸術っていうのはまず技術があってからその上に乗るものってことを教えてくれた。 小学生の下手な絵を独創的と絶賛する大人は自分のノスタルジックに浸りたいだけで、その子の絵の上達のことなんか何も考えていないんだという趣旨のことも言った(これは言いすぎだと思うw) 写実的な絵を目標に、少なくとも僕は絵を描くのが好きになった。 小学生にしては上手かったと思うし、その後の人生である程度役に立った。 最後に習字だけども、これは本当に技術のみだった。 そもそも、習字なんかその道を目指す人以外、芸術性も独創性もいらないと思うし、きっと先生もそう思っていた。(その道の子は学校以外で習っちゃうしね) そんなことより単純に綺麗な字が書けるほうが、その子の未来のためになる。 先生は大きめの筆とバケツを教壇に置き、水をつけた筆で黒板に字を書くという方法で技術を教えた。(知っての通り黒板は濡らすと濃い色に変色する。なかなか分かりやすかった。) まず一文字。常に筆が斜めになっていて、平行移動させ、回転させてはいけないことが重要。最後に一瞬止めるのがコツだった。 みんなで横一文字を沢山書く。 次に縦線、払い、跳ね、横線が沢山あるときの間隔の空け方・・・。 ペン字との違いも教えてくれた。 今思うと、先生は習字なんかよりペン字のほうが生徒のためになると思っていたし、そっちを教えたかったのかもしれない。 僕は小学生の時から、凄い人と、好きな人は別、という嫌な子供だったのだけど、その先生は好きじゃないけど凄い人の最たるものだった。 教えられた技術はもとより、その教え方とスタンスはその後の僕の人生に大きな影響を及ぼしていると思う。 (特に、目標を設定し、技術を細かく分割して教えるというのが、どれほど分かりやすいか知ることができた。) 小学校の頃の話なので、多少美化されてエピソードも大げさになってるかもしれないが。 ちなみにこの先生の話にはとんでもないオチがついている。 何年か後に親から、この先生が左遷させられたことを聞いた。 親からの話なので信憑性はなんとも言えないのだが、どうもセクハラ騒ぎを起こしたらしい。 その話を聞いて、僕は先生が本当にセクハラをしたという場合と、周囲から嫌われた先生が言いがかりで左遷させられたのか、どっちだろうと考えたが、なんか失礼な話だがどっちもありそうだった。 他の先生だったら問題にならない程度のセクハラをして、周囲に話を大きくさせられたか、単純な異動だったがセクハラしかねない先生なので尾ひれがついた噂になったか、きっとどちらかだろう。 天は二物を与えずと言うけど、まあ、それでもどの地方に行っても元気にやれる先生だろうから心配はしない。 その素晴らしい授業を多くの生徒が体験できないことは、残念だとは思うけども。 追記 幾つか美談にしすぎた(というか美談だけ書いた)ので、ちょっと補足をします。 まず、この先生を僕が嫌いだったと何度も書きましたが、本当に人間性はダメでした。 生徒に好き嫌いを持ったり、自分が面倒臭いという理由で行わなかった授業もあります。 後半セクハラがありえると書きましたけど、本当にそういう先生でした。 ですから、ある意味反面教師でもありました。 でも生徒の将来に関しては本気だったし(もちろん多くの他の先生も本気ですね)、アイデアも湧き出る人でした。 一時期隣のクラスでは宿題を出さないキャンペーンをやっていて、宿題の分を授業で片付けるということをやっていて、ちょっと羨ましかったのも覚えています。実験的な授業が多かったです。 このような教え方を全ての先生がやるべきとは言いませんし、それでは無理が出ると思います。 でも、突出した人物には、学ぶべきことは多いと思っています。 特に、「頑張れ」とか「思いを込めて」とか「真心が大事」なんていう、子供心に大人が逃げていることが分かる表現ではなく、「ここをこうすればいい」と(もし分からなければ先生が自身に宿題だと言うこともありました)はっきり示すことを大切にしている態度は今でも尊敬しています。 フリーハンドで直線は、小学生が覚える程度のものなので、それほど凄い技能になったわけではありませんw ただ、小学生の直線って本当に酷いんで、それをちょっとまともに修正した程度だと思ってください。”— しっぽのブログ: 技術を教えてくれた先生 (via gkojax) (via gkojay, notimetosee-blog-blog) (via gkojax-text)
“店内で子供が走り回ってて警備員が注意したら母親らしき女性が 「わざとじゃないんだから、子供は悪くないでしょ!」と騒ぎ始めたので、 「そうだそうだ、子供は悪くない!親の責任だから全部親が悪い!」とヤジを飛ばしてみたら親子はギョッとした顔して黙って消えた。 警備員さん苦笑。”
“だって小学校くらいから、何か辛いとアピールするたびに先生から「みんな辛いんですよ」と、辛さは共有すべきという教育受けてるんだもん。今の「オレが辛い。だからみんな苦しめ」はキッチリした義務教育の賜物だよ。”
“思えば、昔の「スナック」みたいなところって、ああいうオジサンたちの「裏アカウント」あるいは、「鍵付きアカウント」だったんだろうなあ。”— Twitter / takepon1979 (via kanabow)
(Source: twitter.com)
“畳んだ洗濯物を「自分で片付けて〜」と5歳に声をかけたら「もー、お手伝いばっかり!」と。「違うよー。お手伝いしてるのは次女ちゃんじゃなくてお母さん。次女ちゃんが一人でできないことをお母さんがお手伝いしてるんです」と言ったら「あー!そういうことね!」と納得。ご理解頂けて何よりです。”
(Source: twitter.com)